大げさなタイトルを付けましたが、幼児期から高校までの、思うように絵が描けた時代の話です。幼稚園の時に県の展覧会に出してもらったとか、小・中学校の頃は校内の展示で入賞の常連だったとか、そんな感じのレベルです。
小学校の低学年では、描きたいものを画面いっぱいに描き、余白に説明的な絵を加えていたので、いかにも子どもらしいと微笑みを誘うような絵だったと思います。
小学校の高学年の頃には、子ども用の学習本「少女漫画の描き方」を愛読していて、背景の描き方の遠近法や透視画法などを覚えて、うまく見せるコツを身に着けました。
上級生の絵で空を水色ではない色で塗っている作品を見て、真似して水色と青と紫でモザイクのような空を描いたら褒められて、現実には無い色を入れると「先生に受ける」ことを知りました。
中学校で美術部に入るのを楽しみにしていたのですが、部員が3月に卒業して廃部になっていました。私はそこで諦めたのですが、次の年に新入生が復活させたのを聞き、度胸のある人がいるもんだと驚きました。
高校受験を控え、親に美術系に行きたいと言ったら、高校は普通科に行ってくれと言われました。その場では言い争わず、親を説得するか否かを一人で考えることにしました。
まだ子どもで、美術の仕事といったら画家くらいしか浮かばず(広告や商品のデザインとか色々あるのに気づかなかった)、才能のある画家でも、生きている内に評価される人と死んでから評価される人がいて、極貧生活に耐えても絵に情熱を持ち続ける根性は自分には無いと判断しました。
よって、普通科に進学し、美術部も漫画研究会もあったのに入らず、大学受験で美術系に挑戦することもありませんでした。
[この絵は高校の夏休みの宿題で描いた油絵です。そこそこ描けていると思いますが、そんなに思い入れはないです。だから現存しているという皮肉。(次の「冬眠」で理由を説明します)]
絵は何時間でも描いていられたし、「我ながら、いい出来」と思える作品に仕上がったし、周りの声が聞こえなくなるくらい集中するのは普通のことでした。
そんな、自分にとって当たり前のことを失う日が来るなんて、考えたこともありませんでした。
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